ギリシア人のなかで、パイデイアー(一般教養)を実際どのようなものとしていたのか。プラトンの著作、「法律」から、その思想を覗くと、職業的専門的教育を真の意味での教育、人間教育とはみなしておらず、もろもろの領域において限られた特殊な専門的職業上の才覚から区別された一般教育・教養こそ、人間教育というのにふさわしいとし、このような意味での教育・教養が一般的あるいは普遍的とされる理由を見出せる。それは、「人間が端的に人間としてふさわしいものになること、人間としての固有の善さのみかかわる、あるいはそれを唯一最大の目標とする。このような意味での「徳」こそ一般教養・教育の目指すものであるとし、一般教養・教育が「徳」を目指しての教育」とも語られている。そして、この徳へのすすめは「自分自身」本来の自己としての魂(こころ・精神)を善くすることへのすすめでもあるとされている。当時、その「魂の世話や配慮」が徳を持つことを意味し、その技術として政治術があげられていた。「教育家、教育者」ではなく、政治家にそれを求めたのだ。この背景には、「人間が特別な、あるいは限定された存在としてではなく、たんに人間としてかかわりを持つ場面、この意味で普遍的一般的な場面は、とりわけギリシア人にとっては政治の場面にほかならない」とし、ひとりの市民として、一般的普遍的な場面でのかかわりを持ち合うとした。市民であるための能力(アレテー)は、すなわち政治にかかわる能力(アレテー)、政治的徳であり、このような徳をもつものこそが、こぞって魂の世話にかかわるのだとする考えがここに示されている。国民議会や法廷・劇場や戦陣などを通して市民を教育し、「魂への世話」をしつづけててきた。これだギリシア人の一般常識であった。その意味での教育と国家とのあいだには、切り離すことのできない深いつながりがあった。
ギリシア人のなかで、パイデイアー(一般教養)を実際どのようなものとしていたのか。プラトンの著作、「法律」から、その思想を覗くと、職業的専門的教育を真の意味での教育、人間教育とはみなしておらず、もろもろの領域において限られた特殊な専門的職業上の才覚から区別された一般教育・教養こそ、人間教育というのにふさわしいとし、このような意味での教育・教養が一般的あるいは普遍的とされる理由を見出せる。それは、「人間が端的に人間としてふさわしいものになること、人間としての固有の善さのみかかわる、あるいはそれを唯一最大の目標とする。このような意味での「徳」こそ一般教養・教育の目指すものであるとし、一般教養・教育が「徳」を目指しての教育」とも語られている。そして、この徳へのすすめは「自分自身」本来の自己としての魂(こころ・精神)を善くすることへのすすめでもあるとされている。当時、その「魂の世話や配慮」が徳を持つことを意味し、その技術として政治術があげられていた。「教育家、教育者」ではなく、政治家にそれを求めたのだ。この背景には、「人間が特別な、あるいは限定された存在としてではなく、たんに人間としてかかわりを...