佛教大学の提出用設題に対するリポートになります。
判定はBでした。
勉強にどうぞ。
一八九〇(明治二三)年、第一回総選挙が行われた。旧自由党系は大同倶楽部、再興自由党派(大同協和会系)、愛国公党系の三派にわかれ、改進党系勢力と争うという形になった。結果は旧自由党系勢力の勝利となり直後、立憲自由党が再興され三派は合同し議員数一三〇人にも上った。立憲改進党四一人と合わせて一七一人が民党議員であり吏党議員一二九人を大きく上回った。(大成会七九人、国民自由党五人、無所属四五人)
同年、一一月に第一議会が開かれたが超然主義を掲げ軍備増強を進める山県内閣と予算削減と民力休養を主張する民党側との激しい対立となった。富国強兵を推し進めようとする政策に民党は明確に拒絶を示し予算を削減、その分を民力休養と公約でもあった地租軽減に充てるべきとの政策を固めるのである。しかし自由党土佐派の地租修正論によって民党内が混乱させられた。その上、土佐派が買収され民党を裏切った事により政府予算案が成立した。
一八九一(明治二四)年に開会した第二議会は松方内閣の軍備拡張案と再び民党が対立する。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で議会紛糾し、衆議院を解散させる一因となった。そして第二回総選挙時、内務大臣品川弥...