鎌倉幕府と執権政治について
源頼朝は文治元年(一一八五)に平氏勢力を長門国壇ノで滅亡させた。この戦いは
壇ノ浦の戦いと呼ばれ平氏と源氏の雌雄を分けた戦いであった。そして地域的軍事政
権として鎌倉に対抗する勢力を所持していた奥州藤原氏をも文治五年(一一八九)に
滅亡させ、建久元年(一一九〇)に上洛し、権大納言・宇近衛大将に任命され朝廷の
一員となる。さらに治安警察権を朝廷から認められて、国を統一することとなる。建
久三年(一一九二)には頼朝は日本初の征夷大将軍の地位を獲得し、「将軍」の名目
が成立し鎌倉幕府は確立されていったのである。日本史上初めての武家政権が公認さ
れたのである。そして将軍と御家人は御恩と奉公の主従関係を持つ封建制度をとって
いた。鎌倉幕府の支配機構簡素で実務的なものであり将軍を頂点としていた。地方を
治めるために国ごと、公領や荘園ごとに守護・地頭を設置した。幕府による支配力が
強まり幕府支配の骨格が保障されたのである。御家人の統率と軍事指揮、取り締まり
を職務とする侍所も整備され軍事、警察分野は強化された。その他にも家政機関にお
いて公文の作成管理といった財政管...