1.鎌倉時代、源頼朝から実朝まで紛争に当たって下した裁決は、「吾妻鏡」や個々の文書に記されている以外、その当時、法規範という形で成文化されていたわけではなかった。このことは、法理的にも手続的にも、紛争事件に応じて一回ごとに個別・臨時の裁決が下されていたことを意味する。
このような原則の明確でない裁決は、裁決する人間、すなわち将軍の個人的能力に依存するところが大きく、頼朝のように卓抜な指導者がいる場合には的確な対応が行われる反面、指導者に力量がなければ恣意的な裁量に陥り、結果として、権力への不信を生む原因となった。
従って、こうした法制から普遍的・非人格的な法制への転換は、鎌倉幕府にとっての一つの課題であった。
2.そこで、評定衆設置から7年目に御成敗式目が公布された。このことは、幕府初期の不安定な法制度が、特定人格に依存する部分を減少させ、安定的な法運用への一歩を示したものだといえるのではないだろうか。
しかし、御成敗式目公布後も、中世の武士社会の通念では争い事は自然に治まるのが理想であり、裁判の場に持ち出すのは忌避すべきことであった為、武士の法制は、古代国家の律令のような網羅...