国木田独歩 「窮死」
一、初出情報
■初出……「文芸倶楽部」 明治四十年六月
■単行本…『第二独歩集』 彩雲閣 明治四十一年七月
二、著者年譜
明治四年(一八七一)一歳
明治七年(一八七四)四歳
明治九年(一八七六)六歳
明治一一年(一八七八)八歳
明治一五年(一八八二)一二歳
明治一六年(一八八三)一三歳
明治一七年(一八八四)一四歳
明治一八年(一八八五)一五歳
明治一九年(一八八六)一六歳
明治二〇年(一八八七)一七歳
明治二一年(一八八八)一八歳
明治二二年(一八八九)一九歳
旧暦七月一五日(新暦八月三〇日)千葉県銚子市に生まれた。幼名亀吉。父は旧播州竜野藩士国木田貞臣、通称専八。母は、地元の淡路善太郎の長女まん。
七月二九日、専八の母もんが病死し、葬儀後、専八は単身上京。銚子よりまん、亀吉を招き、下谷中御徒町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。
二月、専八、山口裁判所に奉職のため、一家は山口県吉敷郡山口町に移住した。五月、専八は妻とくと正式に離婚した。七月、淡路まん専八の妻に、亀吉はその養子に送籍された。なお、とくも一〇月に再婚。
専八、山口岩国区裁判所詰となり、五月、一家は山口県玖珂郡錦見村散畠に移住。錦見小学校に通学。弟収二生まれる。
三月、小学初等科(以前の簡易学科)を終了。ついで中等科に進級。一〇月、専八は判事補に任命。一一月、専八次男倉太郎(義兄)が病死。
六月、専八山口始審裁判所に転任。一〇月、一家山口町に移住、中等科五級を退学、今道小学校(現白石小学校)に転校。成績がよく、同校教師中山伸一に注目される。
この頃から漢学塾西鄙黌に通い始めたようである。二月、庶子に改められ、六月、嗣子に立てられた。同時に義兄辨三郎廃嫡され、竜野方とは名実共に絶縁した。
七月、山口中学校初等科入学試験に合格。専八、荻治安裁判所に転任。九月、入学と同時に寄宿舎に入る。室長は松崎寿三、同級の今井忠治、古川豹造と親交。この頃の成績は優秀。
六月、司法官制度が改正され、判事補専八は非職を命ぜられた。一〇月親友今井退学。この頃成績よく、その文才が学内で認められ始める。
三月、山口中学校退学。前年、父が非職になったことや学制改革のためという。今井忠治のすすめにより上京。神田の某法律学校に通う。この年二月、徳富蘇峰『国民之友』発刊、二葉亭『浮雲』刊行。一二月、保安条例公布。
五月、東京専門学校(現早大)英語普通科入学。九月、専八裁判所書記となる。これは降格である。
七月亀吉を哲夫と改名。英語政治科に仮入学、間もなく普通科に戻る。
明治二四年(一八九一)二一歳
明治二五年(一八九二)二二歳
明治二六年(一八九三)二三歳
明治二七年(一八九四)二四歳
明治二八年(一八九五)二五歳
明治二九年(一八九六)二六歳
明治三〇年(一八九七)二七歳
明治三一年(一八九八)二八歳
明治三五年(一九〇一)三一歳
明治三五年(一九〇二)三二歳
明治三六年(一九〇三)三三歳
明治三七年(一九〇四)三四歳
明治三八年(一九〇五)三五歳
明治三九年(一九〇六)三六歳
明治四〇年(一九〇七)三七歳
この頃、教会に通う。この年二月、大日本帝国憲法公布。
一月、一番町教会もおいて牧師植村正久により受洗。三月、学校改革のため委員としてストライキに参加。三月、退学願書を提出。五月、山口県熊毛郡麻郷村に帰省。山口を訪れ、また波野英学塾を開く。この年『早稲田文学』創刊。道鴎論争起こる。
六月、収二と共に上京。翌年にかけて『青年文学』の編集に従う。
二月、自由社に勤務。五月『青年文学』廃刊。九月、蘇峰の
国木田独歩 「窮死」
一、初出情報
■初出……「文芸倶楽部」 明治四十年六月
■単行本…『第二独歩集』 彩雲閣 明治四十一年七月
二、著者年譜
明治四年(一八七一)一歳
明治七年(一八七四)四歳
明治九年(一八七六)六歳
明治一一年(一八七八)八歳
明治一五年(一八八二)一二歳
明治一六年(一八八三)一三歳
明治一七年(一八八四)一四歳
明治一八年(一八八五)一五歳
明治一九年(一八八六)一六歳
明治二〇年(一八八七)一七歳
明治二一年(一八八八)一八歳
明治二二年(一八八九)一九歳
旧暦七月一五日(新暦八月三〇日)千葉県銚子市に生まれた。幼名亀吉。父は旧播州竜野藩士国木田貞臣、通称専八。母は、地元の淡路善太郎の長女まん。
七月二九日、専八の母もんが病死し、葬儀後、専八は単身上京。銚子よりまん、亀吉を招き、下谷中御徒町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。
二月、専八、山口裁判所に奉職のため、一家は山口県吉敷郡山口町に移住した。五月、専八は妻とくと正式に離婚した。七月、淡路まん専八の妻に、亀吉はその養子に送籍された。なお、とくも一〇月に再婚。
専八、山口岩国区裁判所詰となり、五月、一家は山口...