L・S・フォイヤー『アインシュタインと科学革命--世代論的・社会心理学的アプローチ』
法政大学出版局、1991年、454 + xii.(1977年、文化放送出版局)
再刊に際して
「ダーウィン産業(Darwinian Industry)」という言い方があるとの話を聞いたことがある。ダーウィンや進化論に興味をもっている人が多く、また研究者も多いので、このテーマは出版業界にとって手堅くビジネスができる分野とみなされ、その結果ダーウィンがらみの出版がひきもきらない、という事情を皮肉まじりに表現した言い方であるとのことだった。我が国でも同じことが言えるだろうし、またダーウィンだけでなくアインシュタインについても同じ事情があると言えるだろう。本書『アインシュタインと科学革命』は、必ずしもアインシュタインだけを論じたものではないが、「ダーウィン産業」の言い方にならえば、本書も「アインシュタイン産業」の一翼を担っているということになるのかもしれない。そのあたりの事情を確認するために、訳者の一人が勤務している大学(広島大学)の図書館の蔵書目録から、書名の一部にアインシュタインを含む和書を(コンピュータ端末を用いて)試みに検索したところ、なんと42冊もの書物がリストアップされた。そのうち、本訳書の初版が刊行された1977年以降に限って代表的なものを刊行年順に列挙すると次のようになる。
C・ランチョシュ(矢吹治一訳)『アインシュタイン--創造の十年』講談社、1978年.
M・フリュキガー(金子務訳)『青春のアインシュタイン--創造のベルン時代』東京図書、1978年.
矢野健太郎『アインシュタイン』(人類の知的遺産)講談社、1978年.
H・デュカス、B・ホフマン(林一訳)『素顔のアインシュタイン』東京図書、1979年.
湯川秀樹監修『アインシュタイン選集(1-3)』共立出版、1979-80年.
F・ヘルネック(村上陽一郎・村上公子共訳)『知られざるアインシュタイン』紀伊国屋書店、1979年.
P・C・アイスブルク、R・U・ゼクスル(江沢洋・亀井理・林憲二共訳)『アインシュタイン--物理学・哲学・政治への影響』岩波現代選書、1979年.
A・P・フレンチ(柿内賢信・石川孝夫・笠耐・星野義昭共訳)『アインシュタイン--科学者として人間として』培風館、1981年.
金子務『アインシュタイン・ショック(上・下)』河出書房新社、1981年.
B・クズネツォフ(小泉俊介訳)『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年.
A・パイス(西島和彦監訳)『神は老獪にして--アインシュタインの人と学問』産業図書、1987年.
L・パイエンソン(板垣良一・勝守真・佐々木光俊共訳)『若きアインシュタイン--相対論の出現』共立出版、1987年.
A・J・フリードマン、C・C・ドンリー(沢田整訳)『アインシュタイン「神話」』地人書館、1989年.
金子務『アインシュタインはなぜアインシュタインになったのか』平凡社、1990年.
アインシュタインの物理学上の業績、特に相対性理論に関する解説書の類をこれに含めれば、右のリストは膨大なものとなるはずである。我が国の読書人の間ではアインシュタインに一貫して強い関心がもたれていると言えよう。いや、アインシュタインへの関心はもっと裾野が広い。現在NHKで放映中の特別番組「アインシュタイン・ロマン」は、我が国における広範なアインシュタインへの関心に由来する企画であろうし、またそれを一層強固なものにするこ
L・S・フォイヤー『アインシュタインと科学革命--世代論的・社会心理学的アプローチ』
法政大学出版局、1991年、454 + xii.(1977年、文化放送出版局)
再刊に際して
「ダーウィン産業(Darwinian Industry)」という言い方があるとの話を聞いたことがある。ダーウィンや進化論に興味をもっている人が多く、また研究者も多いので、このテーマは出版業界にとって手堅くビジネスができる分野とみなされ、その結果ダーウィンがらみの出版がひきもきらない、という事情を皮肉まじりに表現した言い方であるとのことだった。我が国でも同じことが言えるだろうし、またダーウィンだけでなくアインシュタインについても同じ事情があると言えるだろう。本書『アインシュタインと科学革命』は、必ずしもアインシュタインだけを論じたものではないが、「ダーウィン産業」の言い方にならえば、本書も「アインシュタイン産業」の一翼を担っているということになるのかもしれない。そのあたりの事情を確認するために、訳者の一人が勤務している大学(広島大学)の図書館の蔵書目録から、書名の一部にアインシュタインを含む和書を(コンピュータ端末を用いて)試みに検索したところ、なんと42冊もの書物がリストアップされた。そのうち、本訳書の初版が刊行された1977年以降に限って代表的なものを刊行年順に列挙すると次のようになる。
C・ランチョシュ(矢吹治一訳)『アインシュタイン--創造の十年』講談社、1978年.
M・フリュキガー(金子務訳)『青春のアインシュタイン--創造のベルン時代』東京図書、1978年.
矢野健太郎『アインシュタイン』(人類の知的遺産)講談社、1978年.
H・デュカス、B・ホフマン(林一訳)『素顔のアインシュタイン』東京図書、1979年.
湯川秀樹監修『アインシュタイン選集(1-3)』共立出版、1979-80年.
F・ヘルネック(村上陽一郎・村上公子共訳)『知られざるアインシュタイン』紀伊国屋書店、1979年.
P・C・アイスブルク、R・U・ゼクスル(江沢洋・亀井理・林憲二共訳)『アインシュタイン--物理学・哲学・政治への影響』岩波現代選書、1979年.
A・P・フレンチ(柿内賢信・石川孝夫・笠耐・星野義昭共訳)『アインシュタイン--科学者として人間として』培風館、1981年.
金子務『アインシュタイン・ショック(上・下)』河出書房新社、1981年.
B・クズネツォフ(小泉俊介訳)『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年.
A・パイス(西島和彦監訳)『神は老獪にして--アインシュタインの人と学問』産業図書、1987年.
L・パイエンソン(板垣良一・勝守真・佐々木光俊共訳)『若きアインシュタイン--相対論の出現』共立出版、1987年.
A・J・フリードマン、C・C・ドンリー(沢田整訳)『アインシュタイン「神話」』地人書館、1989年.
金子務『アインシュタインはなぜアインシュタインになったのか』平凡社、1990年.
アインシュタインの物理学上の業績、特に相対性理論に関する解説書の類をこれに含めれば、右のリストは膨大なものとなるはずである。我が国の読書人の間ではアインシュタインに一貫して強い関心がもたれていると言えよう。いや、アインシュタインへの関心はもっと裾野が広い。現在NHKで放映中の特別番組「アインシュタイン・ロマン」は、我が国における広範なアインシュタインへの関心に由来する企画であろうし、またそれを一層強固なものにすることになろう。おかげで長らく絶版になっていた本訳書も、装いを新たに再び陽の目をみることになったわけである。
1987年にはアメリカのプリンストン大学出版局によって膨大な『アインシュタイン全集』の刊行が開始された。今後も二十世紀最大の科学者アインシュタインについては、これらの史料に基づいた研究書や一般書が内外で続々と刊行されることだろう。とはいえ、アインシュタインを中心に据えて、二十世紀初頭の物理学革命を社会心理学的なアプローチから論じた本書は、今もなお固有の価値を有すると考える。本書と新しい読者との出会いを期待したい。
十数年前、訳業を開始するにあたって、訳者らの間で、「ユニークな研究書でもあり、英文の構造が透けて見えるような訳文がむしろ望ましいのではないか」との申し合わせをした記憶がある。そのせいか今読み直してみると訳文にやや硬さが残っているようにも感じられるが、技術的・時間的制約もあるので、再刊にあたっては、訳文・訳語に一切手を入れず、単純なミスプリの訂正のみにとどめた。
1991年6月 訳者
訳者あとがき
本書はLewis S. Feuer, Einstein and the Generation of Science, Basic Books, New York, 1974の全訳である。本書で著者フォイヤーは、S・ヒューズが『意識と社会--ヨーロッパ社会思想:一八九○-一九三○』(生松敬三、荒川幾男訳、みすず書房)において、社会思想の展開をあとづけたのと同じ時代と場所--前世紀末から第一次世界大戦後のヨーロッパ--における、現代物理学革命の諸相--相対性理論と量子力学の誕生--を後述するようなアプローチで、分析叙述している。
いささか告白口調になって恐縮であるが、正直なところ、ポレミカルな社会学者ファイヤーの科学社会学に関する近著だということで本書の翻訳作業を開始した当初、われわれ訳者の間にはひとつの困惑があった。それは、原著の標題の後半の部分、generations of scienceとは一体いかなる意味内容を有しているのか、という疑念であった。generationを英和辞典でひいてみれば、「世代」という訳語と並んで「発生」「生成」という訳語もあてられていることはいうまでもない。フォイヤーは本書に先立って、ステューデントパワーが世界的な規模で吹き荒れた一九六九年にThe Conflict of Generationsという著作を著してるから、generationはやはり「諸世代」ととるべきなのか? しかし、「科学の諸世代」というのは、いささかいただけないない日本語である上に、意味が判然としないので、むしろ「科学の生成」「科学の創造」とすべきではないだろうか。今にして想い返せば、はなはだ心許ないかぎりではあった。しかし、訳者のあいだで読み合わせを進めていくにつれ、フォイヤーが文化的創造力--本書においては科学的創造力--の源泉を、主として世代間の葛藤に求めており、その意味では、generationは「世代」であると同時に「創造、生成」でもあるのだということが了解できた。しかしそのことを、原著の標題を活かしながら訳出する手際が見つからなかったので、邦訳タイトルは、内容を見合わせつつ『アインシュタインと科学革命』とし、副題として「世代論的・社会心理学的アプローチ』を付したのである。
もっとも、本文においてはgenerationという名詞形が用いられる例(その場合は、やや煩雑かとも思ったが、世代〔=創造〕のように表記した)は、めったになく、もっぱらgenerationalという形容詞形が用いられている。generational revolutionistとか、generational movementとかが、その代表例である。これらにそれぞれ、「世代的革命家」「世代的運動」といった訳語をあてるのには、当初大いに抵抗感があった。おそらく「世代的」という語が日本語として破格であるからであろう。そもそもgenerationalという語自体が英語としても例外的な用法であるらしくOxford English Dictionaryにはわずかに一例が挙げられているにすぎないのである。しかし、翻訳作業の過程で、generationalに便宜的に「世代的」という訳語をあてているうちに次第に「世代的」という語に対して、訳者の間に免疫ができてしまい、そのまま活字にしてしまった。ただ、この邦訳を初めて手にされた読者が、巻頭の「序文」でいきなり「世代的運動」という語にでくわして、肝を潰されては、読者にはもちろん、フォイヤーにも申し訳ないので、generational movementには「世代間の対立に根ざす運動」というまどろこしい訳語をあてた。
ことほど左様に訳者らを悩ませたフォイヤーの世代論的アプローチについて若干コメントしておきたい。自然科学史ないしは科学社会学の領域に世代論的アプローチを、本書にみられるように大胆に適用したのは、訳者らの知る限りフォイヤーをもって嚆矢とするが、他の学問領域に関しては、この種のアプローチによる研究をしばしばみることができる。例えば、青年期のM・ウェバーの学問的営為の主要な源泉が、その父と父の世代に対する叛逆にあったとする分析は今日では通説になっているようである--G・ロート「マックス・ウェーバーの世代的反逆と成熟」(ベンディックス/ロート共著、柳父圀近訳『学問と党派性--マックス・ウェーバー論考』みすず書房)、およびミッツマン著、安藤英治訳『鉄の檻--マックス・ウェーバー、一つの人間劇』創文社など。また前記ヒューズの著作と同様、取り扱われている時代と場所が本書と重なっているピーター・ゲイ著、到津十三男訳『ワイマール文化』みすず書房の第5章と6章は、それぞれ「息子の反逆:表現主義者の歳月」、「父の報復:客観主義の台頭と衰退」と題されている。因みに、ゲイはその序文で「自然...