からだの危機と人間性の問題を問う

閲覧数2,395
ダウンロード数14
履歴確認

    • ページ数 : 4ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    からだの危機と人間性の問題を問う
    からだの危機と人間性の問題を問う
    −教育領域からの緊急提言−
    久保 健(宮城教育大学)
    岩崎 洋子(日本女子大学)
    目黒 悟(藤沢市教育文化センター)
    高橋 和子(横浜国立大学:兼企画)
    伴 義孝(関西大学:企画&司会)
    キーワード : からだ 人間性 危機の時代 教育 生き方の原理 第三の自覚
    問題の所在
     2002年8月17日、「文部科学省は、確かな学力をつけさせるための総合施策をまとめた」と報道された。これは、本年度より新学習指導要領と学校週5日制の完全実施とが始まったのだが、いずれの科目も「105時間から90時間へ」と授業時間が削減されたことなどをうけて、学力低下論議が盛んに脚光を浴びていることに端を発している。だが一方で「学校体育見切り発車」(2002年4月16日・朝日新聞)という報道もあるなか、日本の子どもの「からだ*の危機」問題が叫ばれだしてから既に20数年も経つというのに、この問題は前面に浮かび上がってこない。なぜなのか。
    ひらがな書きの「からだ」は「60兆個の全細胞」が心身一如で生きて働く存在を意味している。人体科学会的に言うならば、湯浅泰雄の示す東洋的身体論に根ざす「生きている身体」である。
     かつて福田恆存が日本の教育論議を整理して謂う(1957)。論議がジャーナリズムにおいて噴出するのは「後進国の自覚」がそうさせるのだ、と。日本はこの「自覚」を二度もった。最初は明治の開国期に、二度目は敗戦後のアメリカ民主主義受入期にである。ここまでは誰もが指摘することだが、福田の膨らむ分析は大いに刺激となる。明治期の「自覚」は対外的統一と結びついて教育が富国強兵策の一翼を担っていたからであるのだが、敗戦後は対内的統一を促すために教育やジャーナリズムで「自覚」を強調しすぎた嫌いがあると看破する。そして、「明治以来の近代日本の歴史的な歩みを一挙に抹殺してしまったために起こった精神的混乱から(の)脱出」に向けて偏向する対内的統一が必要であったと読み解く。
    …教育の世界では、そのための合言葉として「民主主義」と「平和」が採りあげられました。だがこれはおかしい。…「民主主義」も「平和」も政治の原理であります。それは生きかたの原理ではない。一歩ゆずって言っても、「民主主義」と「平和」とだけに、教育の原理を絞ってしまうわけにはいかぬはずです。(「教育・その現象」・傍点引用者)  福田のもちだす「生き方の原理」(字句変換)とは何なのか。本シンポジウムでは、現今の教育論議に「からだの危機」問題が直接的に浮かび上がってこないことに関わって、この生き方の原理問題を当然のことに追及することになる。
     さて、20数年前の子どもはいまや日本社会の中堅的人材であろう。混乱を増すばかりの日本社会のすべて「からだの問題」の棚上げに起因しているのではないか。からだは「思想」である。さらにからだは「生き方の原理」のはずである。ならば「からだの危機」とは「精神」の「魂」のあるいは「いのち」の危機であろう。いまや危機の時代なのである。この問題を抜きにして人間性の問題へと迫ることはできない相談でないのか。
    シンポジウムの展開
    人体科学会の「会是」を要約してみた。
    ◆ 東洋思想と西洋思想とを融合する新しい総合的学問を日本から発信する。
    ◆ 未来の理想となる人間像を探求する。
    ◆ そのためには諸分野の研究者を組織して人間性について学際的な研究交流が必要。
    ◆ かかる研究では、心身に関わる東洋的技法や体育や芸術や臨床医学などの生きる身体をあつかう領域との

    資料の原本内容

    からだの危機と人間性の問題を問う
    からだの危機と人間性の問題を問う
    −教育領域からの緊急提言−
    久保 健(宮城教育大学)
    岩崎 洋子(日本女子大学)
    目黒 悟(藤沢市教育文化センター)
    高橋 和子(横浜国立大学:兼企画)
    伴 義孝(関西大学:企画&司会)
    キーワード : からだ 人間性 危機の時代 教育 生き方の原理 第三の自覚
    問題の所在
     2002年8月17日、「文部科学省は、確かな学力をつけさせるための総合施策をまとめた」と報道された。これは、本年度より新学習指導要領と学校週5日制の完全実施とが始まったのだが、いずれの科目も「105時間から90時間へ」と授業時間が削減されたことなどをうけて、学力低下論議が盛んに脚光を浴びていることに端を発している。だが一方で「学校体育見切り発車」(2002年4月16日・朝日新聞)という報道もあるなか、日本の子どもの「からだ*の危機」問題が叫ばれだしてから既に20数年も経つというのに、この問題は前面に浮かび上がってこない。なぜなのか。
    ひらがな書きの「からだ」は「60兆個の全細胞」が心身一如で生きて働く存在を意味している。人体科学会的に言うならば、湯浅泰雄の示す東洋的身体論に根ざす「生きている身体」である。
     かつて福田恆存が日本の教育論議を整理して謂う(1957)。論議がジャーナリズムにおいて噴出するのは「後進国の自覚」がそうさせるのだ、と。日本はこの「自覚」を二度もった。最初は明治の開国期に、二度目は敗戦後のアメリカ民主主義受入期にである。ここまでは誰もが指摘することだが、福田の膨らむ分析は大いに刺激となる。明治期の「自覚」は対外的統一と結びついて教育が富国強兵策の一翼を担っていたからであるのだが、敗戦後は対内的統一を促すために教育やジャーナリズムで「自覚」を強調しすぎた嫌いがあると看破する。そして、「明治以来の近代日本の歴史的な歩みを一挙に抹殺してしまったために起こった精神的混乱から(の)脱出」に向けて偏向する対内的統一が必要であったと読み解く。
    …教育の世界では、そのための合言葉として「民主主義」と「平和」が採りあげられました。だがこれはおかしい。…「民主主義」も「平和」も政治の原理であります。それは生きかたの原理ではない。一歩ゆずって言っても、「民主主義」と「平和」とだけに、教育の原理を絞ってしまうわけにはいかぬはずです。(「教育・その現象」・傍点引用者)  福田のもちだす「生き方の原理」(字句変換)とは何なのか。本シンポジウムでは、現今の教育論議に「からだの危機」問題が直接的に浮かび上がってこないことに関わって、この生き方の原理問題を当然のことに追及することになる。
     さて、20数年前の子どもはいまや日本社会の中堅的人材であろう。混乱を増すばかりの日本社会のすべて「からだの問題」の棚上げに起因しているのではないか。からだは「思想」である。さらにからだは「生き方の原理」のはずである。ならば「からだの危機」とは「精神」の「魂」のあるいは「いのち」の危機であろう。いまや危機の時代なのである。この問題を抜きにして人間性の問題へと迫ることはできない相談でないのか。
    シンポジウムの展開
    人体科学会の「会是」を要約してみた。
    ◆ 東洋思想と西洋思想とを融合する新しい総合的学問を日本から発信する。
    ◆ 未来の理想となる人間像を探求する。
    ◆ そのためには諸分野の研究者を組織して人間性について学際的な研究交流が必要。
    ◆ かかる研究では、心身に関わる東洋的技法や体育や芸術や臨床医学などの生きる身体をあつかう領域との協働が不可欠になる。
    本シンポジウムでは、人体科学会の「会是」に対して、つまり「生きる身体をあつかう領域」へ人体科学会が期待を寄せていることに対して、そのうちの一つであるはずの教育領域では、はたしてその「期待」へ応えることができるのかどうかを探ってみることになる。さらに、次の二つの視点から、人体科学会第12回大会の総合テーマ「人間性に迫る」の課題へも迫ることになるだろう。
    ◆ 「…いかに応えるべきなのか?」 ◆ 「…なにを主張すべきなのか?」
     そこで議論を展開するために、次の4氏から、専門領域の立場にたって個別テーマのもとにまずは問題提起をしていただく手筈である。
    ・ 久保 健(宮城教育大学・体育科教育学)
    「日本の子どものからだが奇怪しい:学校はどう対応すべきなのか」
    ・ 岩崎 洋子(日本女子大学・幼児運動論)
    「少子化社会と幼児教育の問題:≪遊び≫の本質を直視して」
    ・ 目黒 悟(藤沢市教育文化センター・演劇論)
    「授業の中で起きていることを確かめる:教育実践臨床研究の視座から」
    ・ 高橋 和子(横浜国立大学・舞踊教育学)
    「≪気づき≫の問題と新しい学びの様式:戦後日本の盲点をのりこえて」
     まず4氏に15分程度で主題と各自のテーマに関わって主張を述べてもらう。次いで4氏の主張に対して、人体科学会の「会員」のなかからコメンテーターを2名たてて、5分程度で的を絞った討議を仕掛けてもらう。4氏は5分程度で応答しそれぞれの緊急提言をまとめる。もちろんフロアーからも討議に参加してもらう。はたして緊急提言は、いかに受け止められるのであろうか。
    第三の自覚
    捨象しきって福田恆存が事の本質を衝く。
    困ったことに、戦後の(教育論議の)人気は教育そのものの真の自律性によって得られたものではなく、政治・経済の問題を吸収することによって得られたにすぎません。教育そのものに対する無関心という事情は依然として戦後から引き継がれているのであります。
    …いずれまた政治の低調化とともに、教育が世人の関心の外に放置される状態がやってくるでしょう。(傍点と括弧内補注引用者)
     ところでこの「1957年提言」をどう見積もるのか。たとえば昨今の「大学冬の時代論」に先導されて目下の大学改革論議が、引用傍点個所の妥当性をあますことなく証明し尽くしてくれている。シンポジウムの企画者としては、いまこそ生き方の原理を問う「根源的な対内的統一問題=からだの原点問題」を志向する自律しうる教育改革のために「第三の自覚」の喚起を呼びかけてみたい。
    どう膨らむのか緊急提言
     久保は現代人の精神と肉体の実存的二分性から全体性の回復を求めて論考する。岩崎は少子化社会の子どもたちをさらに幽閉しかねない競争原理社会を糾弾して論考する。目黒は人と人との関係が新たな世界をつくりかえる可能性を見据えて論考する。高橋はまるごとのからだで自他不二のかかわりを学ぶための気づきに着目して論考する。
     いずれもが生き方の原理を問うているのであるから、政治・経済の天秤問題のみに執着することなく、事の本質に聞き耳をたててくれさえすれば、それぞれの緊急提言が膨らむことと確信している。そこに教育立国の課題が見えてくるだろう。
     子どもの生活に「感じる・動く・ひらく・かかわる・表す」まるごとのからだの経験が潤沢であった時代、逆説的に言えば、「生き方の原点」を問う必要もなかった。だが、現代日本ではどうなのか。問うとなれば、いったい誰の責務なのだろうか。この「どうなのか」と「誰の」問題から逃避してはならない。教育も学校も変わらなければいけないのである。さて、どうすればいいか。
    情報提供先 -> http://www.smbs.gr.jp/2002/wwg/karada.htm

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。