「メノン」に書かれた「想起説」は現代においても説得力があるだろうか。
問題とされているのは「人間が知識を獲得する過程」であると読めるので、自分の頭でそのことをゼロから考えてみたい。
「想起説」を時に批判的に時に現代的解釈に置き換えて眺めつつ考えてみたい。
まず「生まれてくる前にすでにあらゆるものを学んでしまっている」という魂の不死に関して、自分が知る限り(=触れてきた情報による限り)、不死であるのは、現在までのところ究極的には「超ひも」と呼ばれる「最極微の存在」である。生兵法覚悟で思考実験を試みてみたい。
それらの絡み合い(ランデブー)によって段階的にクォーク・(電子)・陽子・中性子・原子核・原子・分子等点状粒子等の物質、また重力・電磁力・強い力・弱い力等のエネルギー、光や波や熱等の現象かつエネルギーとして宇宙が形成されている、とする。
超ひもを根源的な基体としてDNA(遺伝子)も作られているが、このDNAが「情報記憶媒体」として生命の発現と共に幾世代も綿々と受け継がれて来ている事情が「この世界の実情」ならば、現在生きている我々「生命(人間も含む)」が、過去にDNAが触れた情報を保持していて然るべきことであるだろうと考えられる。その意味で、プラトンが推測した「想起説」には同意できるだろう
プラトンの想起説についての考察
「メノン」を読み終え一番に目に付き重要問題としたい事柄は『想起説(後のイデア説に繋がるとされる)』に関してである。しかしその前に『徳』に関する問いかけを簡略ながらまずは考え整理しておきたい。というのも、この対話篇「メノン」におけるラスト(終局)においても尚ソクラテスが最後に「徳それ自体はそもそも何であるか」という問いかけをする場面で結ばれており、個人的に中途ですっきりしない終わり方であると感ぜられ、もどかしい思いがあるからである。
さて、自らの読み方で読む限り、ここで『徳』とされている「徳」とは、現在風に読み直せば、所謂「カリスマ性」のようなものであり、それは一つの事態でもあり「オーラ」とか「後光」と呼ばれる類の‘それ’を指していると思える。さらに砕いて書けば「(独特の)雰囲気」としてもいい。さすれば「徳」自体は教えられるような知識ではない。「徳」それ自体とは知識ではなく、その人の身に備わる(独特の)感覚であって「徳(らしきもの)の身に付け方」が知識として教えられ得るものではある。それはテクニックであるからである。例えば「バンジージャンプをした時の感覚...