新政府の朝鮮外交に対する見解の相違について

閲覧数2,985
ダウンロード数16
履歴確認

    • ページ数 : 5ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    0.はじめに
     幕末から明治初期にかけて提唱された「征韓論」をめぐる動きを中心にして、幕末後の対朝鮮外交に対する当時の有力者たちの見解の相違について考えていきたいと思う。今回、代表的な3人として、木戸孝允と西郷隆盛、伊藤博文を取りあげることとする。

    1.征韓論とは
     幕末期の征韓論は、その当時鎖国政策をとっていて明治政府との国交に応じない朝鮮に対して、武力を用いてでも日本側の要求を実現させようとする主張のことである。「征朝論」ではなく「征韓論」と言われていたのは、当時の日本において「韓」という文字が地名、あるいは民族名として認識されていたためである。この征韓論を主張した中心的な人物として、西郷隆盛や板垣退助らの名前が一般的に挙げられる。この主張は岩倉使節団に参加し欧米の視察を終え帰国した大久保利通や木戸孝允らの「国内の改革を充実させ国力を充実させることが先である」という内治優先説に破れた。そして征韓論が取り入れられなかった西郷らはこれを機に政府を退いたといわれている。
    しかし、実際は公式の場において、西郷隆盛が朝鮮を武力で征伐するなどということは一度も主張していない。むしろ「征韓論」を主張する人に対して西郷が反対意見を述べることもあった。それにも関わらず、中学校や高等学校で使用される教科書には、武力行為を辞さないと主張した西郷ら征韓派と、岩倉使節団から戻ってきた大久保利通・木戸孝允ら日本国内の改革を優先して征韓論に反対した内地優先論派との征韓論争の対立を単純に取り上げ、征韓派が下野したという記述に留まっている。
     「戦争をしないために平和的使節を朝鮮に派遣したい」という考えを持っていた西郷が征韓論派の代表であると一般的に認識されている。そこで征韓論をめぐるそれぞれの主張を今後詳しく見ていくこととする。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    0.はじめに
    1.征韓論とは
    2.佐田白芽、木戸孝允(帰国前)、吉田松陰の考え
    3.岩倉使節団と留守政府
    4.西郷隆盛の「名分」
    5.明治六年政変
    0.はじめに
     幕末から明治初期にかけて提唱された「征韓論」をめぐる動きを中心にして、幕末後の対朝鮮外交に対する当時の有力者たちの見解の相違について考えていきたいと思う。今回、代表的な3人として、木戸孝允と西郷隆盛、伊藤博文を取りあげることとする。
    1.征韓論とは
     幕末期の征韓論は、その当時鎖国政策をとっていて明治政府との国交に応じない朝鮮に対して、武力を用いてでも日本側の要求を実現させようとする主張のことである。「征朝論」ではなく「征韓論」と言われていたのは、当時の日本において「韓」という文字が地名、あるいは民族名として認識されていたためである。この征韓論を主張した中心的な人物として、西郷隆盛や板垣退助らの名前が一般的に挙げられる。この主張は岩倉使節団に参加し欧米の視察を終え帰国した大久保利通や木戸孝允らの「国内の改革を充実させ国力を充実させることが先である」という内治優先説に破れた。そして征韓論が取り入れられなかった西郷らはこれを機に...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。