今回、講義を受けて、私達の生活の中で、最も身近に使われている、言葉というものに対して、記号論の立場からアプローチしてみるという視点を持つことができたわけであるが、その集大成として、いろは歌について考えてみたい。いろは歌は、平安時代末期に流行した、七五を四回繰り返す今様という歌謡形式に従って、日本語を構成する47文字すべてのかなを、一字一回ずつ使って作るという制約の下にもかかわらず、しっかりとした内容を持っているもので、日本の古典文学が最も誇るべき歌なのではないかと思う。いろは歌を記した現存最古の文書は1079年に書かれた「金光明最勝王経音義」であるが、作者は明らかになっていない。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
というもので、当時は清濁の区別が無視されていたことを踏まえて、濁点を補って漢字かな混じりに直すと、
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
となる。解釈してみたい。花は色鮮やかに咲いても、いずれは散りゆくものである。そのような私達が生きているこの世の中で、いったい誰が不変でありえようか。いや、不変な者などいないのだ。すべての存在には理由があるようなこの世界を、また一日生きぬいて思う。儚い夢など見るべきではないのだと。そんなものに酔いしれてはいけないのだと。つまり、世の中に、決して変わらないものなどないのだから、永遠を願って、夢をみることなどには意味がないのだとしているのである。一言で言ってしまえば、この世の無常を訴えているのだ。このような無常感は、平安時代末期の人を強くとらえていたもので、この時代の、みやびできらびやかな生活の陰には、いつもこのような無常観が根底にあり、これがあることによって、限りのある人生という認識のもと、光の部分も逆に輝きをましたのではないだろうか。
日本古典文学の現代的意味
今回、講義を受けて、私達の生活の中で、最も身近に使われている、言葉というものに対して、記号論の立場からアプローチしてみるという視点を持つことができたわけであるが、その集大成として、いろは歌について考えてみたい。いろは歌は、平安時代末期に流行した、七五を四回繰り返す今様という歌謡形式に従って、日本語を構成する47文字すべてのかなを、一字一回ずつ使って作るという制約の下にもかかわらず、しっかりとした内容を持っているもので、日本の古典文学が最も誇るべき歌なのではないかと思う。いろは歌を記した現存最古の文書は1079年に書かれた「金光明最勝王経音義」であるが、作者は明らかになっていない。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
というもので、当時は清濁の区別が無視されていたことを踏まえて、濁点を補って漢字かな混じりに直すと、
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
となる。解釈してみたい。花は色鮮やかに咲いても、いずれは散りゆくものであ...