中国でいう七大方言(北京語、広東語、上海語など)は発音ではほとんど違う言語のようになっているが、漢字で書けば意味が通じる。そのために文を読むことには困らず、国を統一することができたのだ、と聞いたことがある。だけど日本の文字ではそうはいかなかった。このレポートのために全国の方言について調べてみた。地方で使われている言葉は共通語とは反対の意味を持つものもたくさんあった。(例えば、青森でチチという言葉は共通語でいう母の意味をもっているらしい。)これらの誤解をなくすために誰にでも理解できる共通語が日本には必要だったのだと思う。もし共通語をみんなが知っていなければ、日本のなかでさえ会話がなりたたないだろう。
だから、日本の地方に住む人々は私も含めてすべて共通語と方言のバイリンガルだと思う。テレビやラジオの番組で話されている共通語の言葉の意味を理解できないという人はいない。もし標準語を上手に話せなくても、訛りが入ってしまったとしても、それは○○弁的共通語だと思えばいいのだと思う。英語を話すのが上手な日本人が、少し発音が悪いけど言いたいことは的確に伝えることができる日本語的英語を話しているのと同じように考えると、日本人のほとんどはバイリンガルで方言と○○弁的共通語を話していることになる。
方言について
日本の方言を大まかに分けてみると「津軽弁」「盛岡弁」「秋田弁」「甲州弁」「東京弁」「名古屋弁」「京都弁」「大阪弁」「岡山弁」「広島弁」「出雲弁」「土佐弁」「鹿児島弁」「琉球方言(うちなーぐち)」などになる。しかし、日本の方言は地方によって無数にある。例えば、私の住んでいる地域、兵庫県姫路市の妻鹿町は「関西弁」のなかの「播州弁」で「妻鹿弁」と呼ばれている。このように方言は微妙な違いで日本全国で細かく分かれている。そして、方言は一人の人間の出身地を表す存在になっている。
方言にはなつかしさと素朴さと田舎臭さがある。方言で作られたドラマなどはとてもリアリティがあるし、地方出身者が都会では共通語を使っていても、ふるさとへ電話をすると自然と方言にもどるときのなんともいえないほっとした気持ちは、やさしく温かくその人を包み込んでふるさとへの思いを募らせる。方言はそのとき、とても良いものとしてとらえられる。しかし、初めて都会に出てきた地方出身者にとっては、方言のせいで田舎者扱いされたくないため方言を捨ててはやく共通語を自然と話せるようになろうとするかもしれない。これは方言だけが...
気になった点が2つ。
・1段落目、大まかにが細かい
・2段落目の後、方言の悪い点についてもう少し言及がほしかった